れいろ~のぶろぐ~

おたくのぼやき

12月13日から15日までの話

13日の朝、登校途中に母方の祖父が亡くなったと母から連絡が来た。

 

皆さんお分かりだろうが当方ド田舎在住、ド田舎大学3年生である。公共交通機関の都合で帰るにも帰れず1限だけ受け、バイト先に寄って暫く休むことを伝え、数珠とバッグを買い、ブラックスーツと着替えだけリュックに詰めて大急ぎで大阪に向かった。

大学に向かう道でめちゃくちゃ泣いて自転車に乗った学生に2度見されたが、車に乗って母の顔を見た瞬間また涙が溢れた。悲しみに底がないことと、涙は尽きないものであることをこの時初めて知った。

7歳の時に曾祖母が亡くなって以来の身内の死だった。お葬式自体も、小学5年生の時に友人のお父さんが亡くなって以来だった。だから、私にとって死はとても遠く、無縁のもので、なんとなくずっと何も変わらないままでいられるような気がしていた。全然そんなこと無かった。現実は無情である。クッソーーーー!!!!

とは言っても、祖父は89歳だった。長生きした方である。頭も冴えていたし、減らず口は増すばかりであった。特に、祖母と母に対するそれはすごかった。ので、母は実家に帰る度めちゃくちゃ喧嘩していた。その愚痴を、大阪土産のお菓子を食べながら聞くのが恒例行事だった。

祖母は認知症気味であり、足腰も弱いため、救急車を呼んだことを覚えていなかった。ただ、救急車が来た時に泣いたことだけは覚えていた。「おったら文句ばっか言うけどおらんかったら愛想ないわぁ」と呟いていた。お通夜の時もお葬式の時も1人だけ泣いていなかったため、「年取るとそんなもんなんかなぁ」と思っていたが、母いわく「おじいちゃん(自分の親)の時も泣いてなかった」らしい。「泣いてるとこ見たことないわ…」とも言っていた。そ、そか…。祖母は動き回る父を見て「パパ優しーていいなあ」「結婚するんやったらパパみたいな人とするんやで」「よく人見て選びーや」と何回も言っていた。「女が強い方が結婚生活は上手いこと回るわ」と言われて「それはどうかな…^^;」と思った。ノーコメントで。

1人残されてしまった祖母の元へすぐに通える所に叔父一家もゥチらも住んでいないことがダイの大問題である。オイ!!今すぐ徳島と大阪の間に新幹線を繋げてくれ!!!!JR!!!!(すみません、新幹線を繋げているのはJRですか?これは新幹線ミリしらオタクがあなたの心に直接語り掛けています) 今すぐ私が大阪で就職すれば全て無問題なのですが…。それか瀬戸内海を四国山脈の土で埋め立てて本州と四国を"ひとつなぎの大秘宝"にするか。

訃報?を書いてある紙?が、お通夜とお葬式の日付が11月になっていたり、曜日も間違っていたり、祖父の名前も間違っていたり、本当に全部めちゃくちゃだったのだが、その話をしていたら仏壇が置いてある畳の部屋の真ん中に、さっきまで落ちてなかった線香が不自然に落ちており、「じいちゃんめちゃくちゃ怒っとる…」とみんなで怯えたりしていた。まあ、生きてたら怒鳴り込んでたでしょう。

お通夜の前にも散らかった祖父母宅を片付けたり掃除したり洗濯したり遺影やスライドショーに使う写真を探したりとてんやわんやしていた。生前祖父が棺に一緒に入れて欲しいとよく言っていた写真の曽祖父が軍服を着ていて「歴史~…」となったりした。お母さんの写真も入れておいた。あとは、なんかアルバムの間から見つけたアイヌ記念館のチケットとか、大麻比古神社のお守りとか、財布とか、祖父のトレードマークだったハンチング帽とか。趣味だった陶芸の器も入れて置いた。昔はよく一緒に器を作った。余談だが、昔技術の授業で大谷焼の先生に「ごっつい上手やな、あなた陶芸やってる?」と聞かれてドヤ顔で「ちょっとだけ(笑)」と答えたことがある。恥中学生すぎる。

祖父が亡くなった時に座っていた椅子が完全に呪いの椅子扱いされて(最低)部屋の隅に移動させられており、最終的には物置扱いされてよく分からないコードが置かれていた。もうあと1歩というところで埋める人のいなくなってしまったジグゾーパズルは「BTSのジグゾーパズルが発売されるから…」と母に解体されて額だけ持ち帰られた。妹にさせるつもりらしい。自分でやりーや。

 

ようやく葬儀場の準備が整い、祖父の遺体と対面した。本当に寝ているみたいだった。「じいちゃーん」と声をかけたら起き上がってきそうなくらい安らかな顔をしていた。今、思い出してまた泣いている。

お通夜も、めちゃくちゃ泣いた。従姉妹も崩れ落ちるくらい泣いていた。駆けつけてくれた親戚たちも泣いていた。ドが500個つくくらい頑固でモラハラでヤベ~爺さんではあったが、祖父は人に恵まれ、愛されていた。蓮の花を足元に置く時に、祖父に敬語を使っていた父が「お義父さん、ありがとう」と言っているのを聞き、余計泣いてしまった。

焼香直後こけてしまった祖母をめちゃくちゃ離れたところにいたのにすぐ側にいた母よりも早く駆けつけ起こしてくれたスタッフさん、ありがとうございました。妹と「忍」という称号を付けさせてもらいました。タメ口で「大丈夫?!」と呼びかけていたため親戚かと思ったが全然違った。本当に助かりました、忍…。

最初から最後までスタッフさんの気遣い、本当~にすごかった。接客のプロすぎた。

従姉妹姉妹と会うのは5年ぶりだった。すごくたわいも無い話をした。次は悲しい事じゃなくて結婚式とかめでたいことで会いたいものだ。

お通夜の食事で出たローストビーフの味が無さすぎて肉ガチ勢の妹が隣でめちゃくちゃキレており、メチャ怖かった。

 

あんまり眠れないまま朝を迎え、お葬式が始まった。ピアノアレンジの粉雪が流れていて「じいちゃん粉雪別に好きじゃないのにWWWWWW」となったりした。祖父には"好きな音楽"という概念がなかったので向こうの人が良さげなのを選んで流してくれたんだろう。祖父が1番歌っていた歌は「軍歌」である。れ、歴史~…。

 

スタッフさんのナレーション「目を瞑ると優しい表情が浮かんできます」

私「フッ(笑)」

 

笑っちゃった。嘘すぎて。

だってそんな顔見たことないし…。

 

「お孫さんにとっては優しいおじいちゃんとして…」

私「ヘッ(笑)」

 

また笑っちゃった。

優しくはないし…。

 

本編(?)ではまた泣いた。まだ泣けるんかってくらい泣いた。棺にお花を詰める時が1番やばかった。父が泣いているのを初めて見た。みんな動けなくなるくらい泣いていた。

火葬場まで見届けたあと、私と妹と父だけ家に置いてきたうさぎが心配で先に帰ることになった。じいちゃんごめーん…。

 

すごく長い3日間だった。人の死の悲しみというのは楽しい音楽や映画や、そういうものを借りて元気を出して乗り越えていいものなのか、私には分からない。悲しい時は悲しいままで、いつかそれが晴れる時まで、そのままでいた方がいいのだろうか。分からないよ~~!

とりあえず今日はゆっくりします。

 

 

散華?だったか、蓮の花の形をした便箋に祖父へのメッセージを書いた。私も祖父も善とは遠い人間だから、「天国に行けるかどうかは分からないけど、100年後にまた会いましょう」と書いておいた。私は、121年生きるつもりである。余裕で。なんなら200年くらい生きてもいいつもりである。

きっと、「お前はほんっま厚かましいやっちゃな~」と言いながらも、私が長生きできるように暖かく、力強く見守っていてくれるに違いない。

私のじいちゃんは、そういう人である。